しただ郷エコツーリズム推進協議会 eco tourism

自然・歴史・生活文化の概要

生活文化概要

八木上(やぎかみ)
八木ヶ鼻から奥にある集落の総称。守門岳・粟ヶ岳などの山々に囲まれた地域で2~3mの雪が降る豪雪地帯である。
八木上は大きく東谷、中谷、牛野尾谷の3つに分けられる。東谷は南・北五百川、大谷地、笠掘、大谷、大江をいったが、大谷、大江はダム築造により集落は消えた。「中谷」は長野、名下、栗山、塩野淵をいう。牛野尾谷は五十嵐川の支流守門川に沿った集落で、牛野尾、濁沢、早水、葎谷(もぐらだに)、遅場の5集落をいう。かつては吉ヶ平もあったが集団離村した。
八木上は山間地帯のため、かつては林産物によって生計を立てていた。
笠掘の砥石(笠掘砥・五十嵐砥)
今からおよそ300年前、笠掘川の支流砥沢に砥石の鉱脈が見つかり、切り立てられて搬出され広く使われた。中砥としての品質をたたえられて信用を博した。
産出場所が奥地の峻険の地にあり、搬出に非常に困難で危険を伴う道中であった。
江戸中期から笠掘村の特権として笠掘一村にだけ採掘が許された。産出量は1,000俵以下で、明治3年には700俵の産出が記録されている。戦後は鉱脈も減り、人口砥の普及などでいつしか途絶えた。採掘は笠掘集落に限られていて資源が少なくなった頃は採掘日数を限ったりしたという。(参考「三条市史上巻」)
大谷地和紙(おおやちわし)
大谷地和紙は楮を原料とする。その歴史ははっきりとはわからないが、500年以前からと思われる。
徳川時代に入り、下田郷は村松藩(堀公)の治世下にあった。大谷地紙は藩の御用紙として米の代わりに貢納することとなり、漉立の特権を与えられた。耕地の少ない集落にとってこれは多分に益したことだろう。しかし負担がだんだんと過重になり、集落のみでまかなわれず、他集落の応援を得たという。
明治維新後は誰でも漉けるようになったが、第二次大戦後、合成化学の発達により衰退し、一次途絶えたが50年振りに復活し、新しい和紙作りを目指して作業している。
五百川の竹細工
竹が多く産出されていた五百川では、竹細工が盛んに行われていた。冬になると家内全員で製作に励んだという。
ザル、もんどし(ふるい)、箕(ミ)などであるが、ザルが多数を占めていた。
五百川の鍛冶炭(いもがわのかじご)
五百川は竹細工の笊(ザル)や箕などで有名だったが、見逃せないのが鍛冶炭である。金物の町三条が必要とした炭である。良質の刃物を作るには良質な炭が欠かせなかった。この木炭は鍛冶炭(かじご)と呼ばれ、下田郷に全面的に頼っていた。その中でも五百川は一大産地であった。
記録によると、安政二年(1855年)には高岡御番所から鍛冶炭9.5万俵、堅炭2万俵、柴47万束、割木6万束など炭や木材の需要が多く、しただ郷から供給されていたことがわかる。当時は五十嵐川を通じて、運搬され、鍛冶町で水揚げされていた。(参考「三条市史上巻」)
丸倉銅山(まるくらどうざん)
新しく掘られた289号線の県境トンネル近くに丸倉鉱山があり鉛や銅を産出した。
宝暦9年(1790年)頃開発され初期は請け負い経営であったが、弘化4年(1847年)頃村松藩の御手山(直接経営)に移って稼動した。嘉永に入って鉛を焼いて白粉(おしろい)を製造し、大きな利益を上げたという。
慶応4年の戊辰戦争に鉛の需要が増大して有用性が増したが、やがて衰微していった。近辺にある立木 を乱伐して燃料が枯渇し、精錬できなくなったとの説もある。
拾石銀山(じゅっこくぎんざん)
五百川粟ヶ岳の裾野にあった鉱山。
文政7年(1824年)地元民によって発見され採掘が始まり、銀や鉛が産出された。
天保期は年にして銀30貫(約125kg)以上の産出があったというが、やがて減産に向かい、明治3年ごろ採掘が終わった。
森町の五間割(もりまちのごけんわり)
豊景-景久-藤景と続いた下田長尾氏が主家上杉謙信の軍勢に攻められて高城において抵抗したがついに落城、滅亡した。時に永禄8年9月と伝えられる。
高城の入り口に要害山といわれる砦があり、これに続いて「元町」の地名を残す田が広がっているが、かつて森町の集落があったと伝わる。高城落城後いかなる理由であるか現在の地に移住させられたとか。中央に道路を取りその両側に水路を通じ、その外側に各5間の幅を間口として屋敷地を割当てたという。水路には各戸に水屋が立っていた。
宿場町としての機能があり、またお盆と正月のために市が立ち、賑わったものである。