しただ郷エコツーリズム推進協議会 eco tourism

自然・歴史・生活文化の概要

歴史概要

五十嵐川流域遺跡群
旧石器時代から縄文・弥生・古代・中世へと各時代の遺跡が切れ間なくあり、それぞれの時代の著名な遺跡が所在している地域である。また、流域には480箇所もの遺跡があり、全国的に遺跡の密度が濃い地域でもある。
今に残る五十嵐川流域の山、川などの自然環境は、人々の営みには欠かせない生活資源であり、遺跡群と共に歴史的な環境もよく残されている。
御淵上遺跡(みふちがみいせき)
旧石器時代(約20,000年前)の遺跡。
西日本に多く見られるナイフ形石器が出土している。県内では5~6箇所しか出土例がない珍しいもの。
遺跡の眼前にそびえる八木ヶ鼻が、当時からランドマークとしてあり、ここを目印に人々の移動、交流があったことが伺える。
御淵上の「御淵」とは、神霊の絶壁八木ヶ鼻の麓で五十嵐川・守門川・駒出川が合流する神域の淵のことである。
荒沢遺跡(あらさわいせき)
旧石器時代(約15,000年前)の遺跡。
ナイフ形石器とそれを作った工房が見つかっている。
また、この時代の本州には珍しい赤色顔料が見つかっている。赤という色は特別な色で、埋葬の時などの儀式に復活再生を願って使われたと考えられている。
赤は古来より太陽・血・炎などの命を連想させ、強い力が宿ると信じられてきた。
中土遺跡(なかつちいせき)
旧石器時代(約13,000年前)の遺跡。
「細石刃」と呼ばれる小さな石器が出土し、これは極東アジアから獲物を追って日本列島に渡ってきた人々によってもたらされたといわれる人類が初めて発明した替刃式の刃物である。
昭和39年に長岡科学博物館の中村孝三郎氏によって三条市内で始めて学術的な発掘調査が行われた場所でもある。
八木鼻岩陰遺跡(第1号・第2号)
縄文時代草創期~弥生時代、古代、中世の遺跡。
第1号は絶壁正面、第2号は東側にある。先史時代は主に住居として、その後は狩猟などのキャンプサイトとして使用された。古代以降は八木ヶ鼻を神霊とする信仰の場となり現在に至る。
山間部の露頭では珍しい岩塩が発見されている。塩は、人や動物が生きるためには不可欠なものであったので、八木ヶ鼻の威容と合わせてこの地がランドマークとなったとも考えられる。
ここを中心に多くの遺跡が周辺にあり、この流域の人とモノの交流の目印であったことが伺える。八十里越をした人々もこのランドマークを見たことであろう。
長野遺跡(ながのいせき)
縄文時代中期(約5,000年前)の遺跡。
火焔型土器が出土する大集落である。ムラの長(オサ)が身に付けたヒスイの「大珠」(首飾り)が出土している。マツリなどで人やモノが集まる五十嵐川流域の拠点的なムラである。
会津地方の縄文土器と酷似する形や文様の土器が出土していて、当時すでに八十里越を通って会津地方との往来があったと考えられ、この地域は信濃川流域と会津とを結ぶ縄文文化交流の地であった。
雨生講(まごいこう)
五十嵐川の水難防止のために流域で行われている雨生池信仰。毎年5月の田植え後には雨生様(雨生神社)へのお参り・奉納が今でも続いている集落がある。(荻掘・滝谷・島潟など)(現在は八木神社へ参拝)
荻掘集落近くの五十嵐川の川べりに雨生様を祀った場所があるが、五十嵐川の要所ごとに祀られている。
当時は1日がかりで早朝から出かけ、おにぎりと酒1升を携え、若い人たちが行く行事であった。
吉ヶ平(よしがひら)
源氏の落人、源仲綱公がこの地で亡くなり、その家来が墓守の為にこの地に落ち着いたといわれている。
八十里越が盛んな頃は宿場町として栄えていた。また雨生神社が昔はあり、五十嵐側沿いの集落から雨生講の参拝客もあった。
昭和45年には集団離村しているため、今は人が住んでいないが、当時の早水小学校吉ヶ平分校があった。(生徒10名、先生2名)
雨生ヶ池(まごいがいけ)
大蛇伝説のある、神秘の池。
昔、笠掘にあった冶右衛門屋敷に美しい娘がいた。そこに怪我をした若武者が来てその家で介抱をしたが、その若者は自分の出所を語らない。ある日若者が元気になり、その家を出て帰るといったが、娘のお腹にはその武士の子供が宿っていた。娘の母親は娘に、武士の衣の裾に赤い糸をつけた針を指しておく様にといい、娘は夜のあいだに武士の衣に針を指しておいた。明け方、武士がいなくなってから母娘はその赤い糸の後を追い、たどり着いたのが雨生池であった。すると、池から大蛇が出てきて、話はじめた「私はこの池の主で、あの時の武士だが毒針に刺されて、もうすぐ死ぬ。だが、娘のお腹には私の子どもがいる。その証拠にその子の脇の下には鱗が三枚ついている。どうかその子を大切に育ててやって欲しい。」といって池に沈んでしまった。そして生まれたのが後の五十嵐小文治であったという。この伝説により、雨生池の神様は金物を嫌い、雨乞いをする時には金物を投げ入れるという風習もある。「しただの民俗」によると大蛇は最明寺様の仁王門の淵にいたという説もある。
また、昔はこの周辺に牧場が多くあり、この地にいた怪鳥が馬を襲うため、馬追い池から馬子池と呼ばれているという説もある。
「一茶の伝説」には沢の行者が黄金の鶏と金と、薬師如来を持って村の相談に当たっていた。行者が村の長老が怪我をした時それでさすったらたちどころに治った。それを見たヤタはその行者をうち殺し、埋めたあとが池になり、雨生池になった。それを見たヤタは恐れおののき、飢え死にしてしまったといわれている。
三義民慰霊塔(さんぎみんいれいとう)
文化11年(1814年)に起こった、凶作による大規模な百姓一揆の首謀者3人を祀っている慰霊塔。
年々重くなる村松藩の年貢取立てに耐え切れずに起きた一揆であり、15歳から60歳までのものが集まり、葎谷から下田の各集落の農民を巻き込み、七谷を通って村松藩全域から百姓が集まった。
要求は聞き入れられ、米などの物資を支給されたが、首謀者となった葎谷の徳次郎、七蔵は斬首処刑、忠右ヱ門は領外追放となった。
多くの領民の命を救った恩を忘れずに、昭和14年に地元有志によって建立された碑。今でも5月16日は慰霊祭が行われる。
八木神社(やぎじんじゃ)
八木ヶ鼻のふもとにある神社。かつては八木・守門大明神として八木ヶ鼻の山頂に祀られていた。勧請開基は大同2年(807年)といわれている。現在の本殿は万治元年(1658年)に、拝殿は明和5年(1768年)に再建されている。
祭神は稲作の神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)、門戸守護の神である岩間戸命二柱(いわまどのみこと)、新田義貞父子4神像など。高城城主長尾景久の祈願社で、太刀が奉納されている。また、江 戸時代には村松藩主堀丹波守が八木ヶ鼻のハヤブサ彫刻額1対を寄進している。
昭和45年に吉ヶ平雨生・大山祇神社、のちに大江・大谷の鎮守社が合祀されている。(「下田郷史跡文化財の散歩道」より)
最明寺(さいみょうじ)
天平元年(729年)の開基と伝えられている。鎌倉時代に北条時頼は出家して最明入道と名乗り、越後国を巡錫(じゅんしゃく)して三十三の観音札所を定めたといわれている。これを機に寺は最明寺と号し、法相宗から真言宗に改宗し、4つの末寺を有する構えとなった。鎌倉時代(13世紀)に作られたといわれている千手観音は観音堂に祀られ、平成22年に三条市の有形文化財に指定されている。改宗時に建立された本堂には大日如来像、脇侍には不動明王と愛染明王が安置されました。現在の本堂は焼失後、明治三十年に建立されたもの。
千手観音は2月18日と8月9日のみご開帳があり、拝観が可能である。(「下田郷史跡文化財の散歩道」より)
鼠薬師(ねずみやくし)
八木ヶ鼻の向かいにある標高285mの山。昔、山頂に薬師堂があり、5月8日の縁日前夜には麓から山頂まで参拝者の提灯の明かりが点々と続いたという。
鼠薬師の云われはある村で鼠狩りを行い、つかまった大量の鼠を殺そうとした所、出会った行者がその鼠たちをさとし、助けてやった。やがて行者が薬師堂に来た時に鼠たちがお堂の前で合掌し、お礼をしている場に立会い、さらにさとして旅を続けたという。以降、鼠の害は減り、養蚕農家の護り仏として広く信仰されるようになったという伝説が残っている。(「下田郷史跡文化財の散歩道」より)
長禅寺(ちょうぜんじ)
文正元年(1466年)、禅宗越後国四道場の名刹の1つ、村松の慈光寺三番目の末寺として開基された。下は中浦にあり、新田一族の館跡といわれている諏訪ノ平という現在の地に移ってきたといわれている。
近くの高城には戦国時代、下田長尾氏の山城があり、長尾豊景、景久の菩提寺となっている。
また、下田の偉人諸橋轍次博士の菩提寺としても知られている。(「下田郷史跡文化財の散歩道」より)
長見寺(ちょうけんじ)
化茶釜で有名な新屋にある曹洞宗の寺。もとは鹿熊(かくま)にあり、浄応寺と称していた。天正元年(1573年)現在地に移り、長見寺となったときに伝来の化け茶釜も受け継いでいる。
この茶釜は奇妙なことに住職にだまって檀家をまわってお経を読み、ご馳走になってくるという習性を持っているという。しかし、後に災いを心配し、茶釜の蓋を墓に埋めてしまった。
また、この茶釜は置いた場所を水をもらさずに湿らせる特性を持っており、防火茶釜ともいわれている。(「下田郷史跡文化財の散歩道」より)